Grace sorprendente  一章 




「…っ!…かはっ!」
目を覚ました瞬間、早川千歳は声をあげる事が出来ずに呻いた。
あまりにも突然の事に頭が働かない。
覚醒したと同時にきた全身を強打するような強烈な痛みに呼吸が出来ず、それに半ばパニックになって動けずにただ足掻いた。 また、目の前が酷く明滅しているのか周りをはっきりと確認できない。 助けを呼ぼうにもかすれた声ではどうしようもなく、ただひたすら身体を襲う激痛に身を丸めて耐えることしが出来なかった。
だが、必死に耐える内に段々と痛みが和らいでくる事で霞掛かった思考がクリアになり、身体を襲っていた痛みは一時的なモノだと理解して多少なり安堵を覚える。
一応まだ動かないようにして完全に痛みがなくなるのを待っていた。寝転んだ状態だったがこの際は仕方がない。
先程の痛みを堪える事が出来たのに動いてまた痛みだすのは流石に勘弁願いたかった。
それに、冷えた地面が熱を持った身体を冷ましてくれているのか気持ち良い。
なので、痛みが徐々に抜けていくのをじれったく思いながらも、地面の心地よさに暫く身を任せていた。
そしてようやく痛みが完全に引いた後、千歳は腕などを動かして当たり障りないか確認をした。
緩慢な動きだが、少なくとも動かせないことはない。
動きが鈍いのは疲れによる倦怠感だと分かっているので大丈夫そうだと判断した千歳は、ゆっくりと身体を起こそうと動かした。
急に動くとどこかを痛めるかもしれないという懸念があった為だ。
そして、気だるい身体を起こしてようやっと周りを見たとき、千歳は一瞬訝しげな表情をしたが瞬時に目を見開いて呆然と立ち尽くした。
「………村?」
いや、正確には村だったものといったほうが良いかもしれない。
家が6戸か7戸建っているが、どれもこれも普通とは掛け離れていた姿だった。
屋根が焦げ落ちており、何かで破壊されてたかのように壁に穴が開いていたり、木が腐っていたり…。
また、この状態になって年月が経っているのか所々に植物が生えている。
人が住んでいるとは到底思えない。みるからに廃村と分かるほどの光景だった。
だが、千歳は村の状態に驚いているよりも、もっと重大な問題があった。
「どこなのよ……ここ」
立ち尽くしながらそんなことを呟く千歳に、答えるものは誰もいない。
言葉にした通り、千歳はここが一体何処なのか分からなかったのだ。
知りもしない廃村の中でただ一人、まるで放り出されたかのような錯覚を覚える。 実際その通りなので錯覚ではないのだが…。
こんな状況で身体の倦怠感も相まって不安になってきたが、それでも何とか冷静になろうと頭の中を整理するために千歳は考えた。
確か学校へ行くために、朝起きてから眠い目を擦りつつも直ぐに制服を着て、テーブルに並べられた母の作った朝食を頂いた。
朝食はごはんに味噌汁、目玉焼きと至って普通の日本食だ。その最中に家族となんでもない話をしていたのも覚えている。
そして、食べた後は登校するのにちょうどいい時間になるまでニュースなどを見てのんびりして、それから行ってきますと両親に告げて家を出た。
元気よく家を出てから通学路である歩道を歩いていると、前の方に高校から親しい友達を見つけて挨拶がてら一緒に学校へと楽しくお話しながら登校していた筈だ。
その筈なのだが、それからが思い出せない。
どんなに思い出そうとしても、何度も頭の中で繰り返しても同じことだった。
まるで映像が途中で急に途切れてしまったかのようにその先を思い出すことが出来ない。
段々苛々しながらも無理に思いだそうと根気よく続けていたが、それが災いしたのか頭痛が再発して思い出すのを妨害されてしまった。
今度は一度深呼吸して努めて冷静に考えたのだが効果はなく、結局何がどうなっているのかわからないまま。
「なんなの…訳分かんない…」
そう言うしかなかった。
ここが何処だか分からない。自分が何でここにいるのか分からない。どうしてこうなったのか思い出せない。
分からないことだらけで、暫く周りを見渡しながら呆然としていた。
それから数分経った頃だろうか。
やっとこれからどうするのかを考えるようになった。
胸の内にある不安などを抑えながら、落ち着いて考える。
そして、ただここで呆然と立っているよりも歩くことで少なくともこの状況を変えることが出来るかもしれないと、そう結論付けた。
それからの行動は早かった。
千歳は頬を両手で軽く叩いて気合いをいれると、まず村の中から手掛かりを見付けようと歩き始める。
まず一番に分かったことは、気絶してからずいぶんと時間が経っているという事だ。何故なら辺りは薄暗く、月夜の光がぼんやりと周りを映している。少なくとも半日かそれ以上の時間気絶していたと千歳は推測した。
また、知らない所にいるという事は誰かが千歳をここに運び込んだ可能性がある。理由は分からないが。
もし何かしらの理由を挙げるとしたら、あり得ないのだが身代金目的という線があるかもしれない。
千歳の家はサラリーマンの父を持った裕福でも貧乏でもない家庭なので、余程運が悪くない限りはないと思っているのだが一応の理由としてはこれが当てはまる。
そして、何かしらの理由でここに置き去りにされたのかもしれない。
誘拐した人物が見張りもなしにいなくなっている事からその可能性はないともいえない。
なら、早くこの場から立ち去った方がいいかもしれないと考えた。
もし犯人がまだここにいて、見つかったら最悪な事が起きるかもしれないからだ。
幸い、ここがどこか分からないとしても日本のどこかであることに変わりはない。
そう判断して千歳は暗闇の恐怖に少し怯えながらも、慎重に辺りを警戒しながら歩いていく。
千歳を運んできた人物、またはその複数の者たちが近くに居るとも限らない。
静かに、廃屋の間を抜けながら歩いていく。
すると、辺りが暗いのか月夜に照らされる周囲を頼りに進んでいた千歳の耳に何かが聞こえた。
脈が速くなるのを感じながら、そっと廃屋の影から聞こえた方向へと慎重に顔を出して辺りを見回す。
「……なら……誰………かれるこ…あの……準……とができ……」
それは誰かの声だ。所々聞き取れず、何を話しているのかは分からない。
もしかしたら千歳をここに連れてきた人物かもしれない。
辺りは暗いが、千歳はもう少しよく見ようと目を細める。
すると、はっきりとは見えないがそこには背の高い人物と、それよりやや背が低い人物の2人が立ったまま話し込んでいるのが見えた。
どちらも、声を聞けば男性であるとこが分かる。
(どうしよう、なんだか凄く嫌な感じがする)
千歳はそう思いつつ、やはり声が気になってもう少し聞こえるように耳を静かに傾ける。
これだけ暗いのだから物音を立てさえしなければ見つかることはないと判断してのことだったのだが、この判断が千歳にとっての分岐点になろうとは知る由もなかった。
じっとして更に聞き耳を入れていた千歳は、次の瞬間思いもがけない言葉を耳にした。
「……すれば……の…を…殺して…ことも………」
「っ!?」
千歳はあまりの驚きに咄嗟に声を出さないように自らの口を手で塞ぐので精一杯だった。
心臓が高鳴ってくるのが分かるぐらい、動揺しているのが自分でも分かる。
話している言葉から「殺し」というのが聞こえた。
こんな人気のない場所で物騒な言葉を喋っていることが、酷く現実味を帯びている。
もしかしたら、この二人が誘拐犯なのかもしれない。先程の物騒な言葉を聞いたことから余計にそう思った。
千歳がここに置かれていた所に怪しい二人組のこの会話である。
肯定しないまでも否定はできなかった。
千歳は、ここでやっと盗み聞きしていた自分の判断に後悔した。
怖いもの見たさは時として自らを危険に晒すのだと十分に理解して、気取られないように必死に息を殺してこの場を直ぐに離れようと一歩後ろに下がる。
その下がった足の下から不意に、何かを踏み割る音がした。
「っ!?」
「誰だっ!?」
音に気づいた二人が鋭い声を発して、千歳のいる方へ振り向いたのが見えなくても分かった。
(や、やばっ!?)
隠れているが声の鋭さに身を縮めて震える千歳は、そっと先程音が鳴った原因である足元へと視線を向ける。
そこには、ちょうど足の下で二つに折れている小枝があった。
どうやら、この小枝を無用心にも踏んでしまったが為に気づかれたのだと千歳は自分の足を呪いながら身を凍らせる。
「出て来い」
二人のうち背の高い男がそう言いながらゆっくりと千歳の隠れているところへ近づいてくる。
明らかに殺気立っているその男の雰囲気が、隠れているのにも関わらずまるで刺すように伝わってきたことに千歳は恐怖した。
素直に出て行けば、確実に殺される。会話を聞かれてたと思っているのだから口封じしようとしているのは明らかである。
聞いてないと言ってもきっと同じ結果になる。
また、殺さないでと懇願しても、縋りついても聞き入れずに殺してくる。
男が放つ殺気は正にそんな雰囲気だった。
「……っ」
廃屋に隠れながらも足が震えているのが分かる。まだ顔も見られていない。どこかに移動すれば大丈夫。
そう思っていても、足は中々動き出してくれない。
陸上部に所属している千歳に走って逃げることは簡単だ。普通の女子よりも早く走る自信があるし、体力もある。
だから今すぐに走って逃げることができれば、見つかることはあっても捕まる事はないと思っているのに、どうしても足が動かない。
力が入らない。叫んでしまいたくなった。足を思いっきり叩き、殴りつけたくなった。
こんな時に震えて言うことをきかない足が、涙が出るほど恨めしく思った。
(うごけっ!うごけっ!!)
必死に心の中で叫んで、震える足を手で力いっぱい抑え付ける。
段々近づく足音に焦りが大きくなる。胸の動機が激しくなってくる。汗も尋常じゃないほど背中から流れていく。
そして、大きくなる足音のする方向を不意に見た瞬間。
「っっ!!?」
唐突に後ろへ翻り力の限り疾走した。あれ程震えて動かなかった足が突如その力を爆発させたかのようだった。
だが、千歳はもう自分の足がやっと動いたことに思考が及ばなかった。それ以前に、動いて走っていることさえも気づいてなかった。
頭が真っ白になっていて、何をしているのかさえ分からない。だが、死に対しての本能が少女を動かしてその場から遠ざかろうと、全身の力を出し切るように無意識に身体を運んでいた。
そんな千歳の頭の中は走っている時でも先程見た光景に占領されていた。
切っ先が鋭く尖っており、月夜に照らされて輝き、切る為に使われる原始的な武器。
切っ先が少し目に入っただけだったが、それが人を切る為に作られた剣だと直ぐに分かった。
息が苦しい、喉が痛い、足が痛い。
死にたくないとばかりに走り続けた。後ろを振り返る暇も無い。
振り返ったら最後だと思うようにただひたすら前を走り続けていた。
そして、身体の限界以上の力を出し切りながら走った千歳はついに地面に膝をつき、荒い息を吐いて咳き込んだりしながら息を整える。
これ以上は走れないと身体が訴えている。息苦しさから解放されたが、身体は疲労が大きい。
しかし、疲労は確かに大きいのだが確認せずにはいられなくて身体に鈍痛が走ってるのを無視して千歳は後ろを見た。
今まで振り返らなかった後ろを振り返ってみたが、そこに追ってくるような気配はない。
「たす、かった……?」
思わず安堵の溜息がでた。どうやらあの恐怖から逃れることが出来たようだった。
いままでの千歳の人生の中で、これほど生きているという実感を感じることは無かった。
生きることへの有難さに感謝するほどだ。それほど、千歳にとってあの光景は衝撃的だった。
周りを見渡してみると廃村から大分走っていたのか、森に囲まれた小道に座り込んでいることに今更ながら気がつく。
ということは、ここは少なくとも人が通る道であることが分かる。
この道を辿って行けばもしかしたら町なり村なり見つけられるかもしれない。
疲れてはいるがのんびりもしていられない。直ぐに動かないとまた見つかってしまうかもしれないからだ。
それより先に村なり街なり人が住む場所まで行けばこちらの勝ちだ。
そして見つけたら直ぐに二人組の男を警察に通報しよう。それで一件落着だ。そう前向きに考えて、自分に渇を入れるように立ち上がろうとした時だった。
背中に衝撃が走ったかと思うと、焼けるような激痛が千歳を襲った。
「あぁあぁぁぁっっ!!?」
右肩から左腰に掛けて袈裟懸けに何かで一閃されていた。
とても我慢できる痛みではない。いっそ気絶してしまった方が楽とも思えた。
だが気絶することが出来ず、それでも背中を襲う痛みに抗いながら、涙で歪む視界を先程まで背を向けていた方へと向けた千歳はそれを見る。
そこには男がいた。
かなり背が高いのか、立って背を比べたとしても見上げるほど大きいというのが分かる。
土埃によって汚れており、艶もなく渇いている黄土色の短髪、修羅場を何度も潜り抜けていったような精悍した顔つき。また、地味で古く所々薄汚れた服を着て、手には血に濡れた剣を持ち、冷たい眼差しを倒れた千歳に向けている。
それはさっきまで話し込んでいた二人組の背の高い男の方だと気づくのに時間が掛かった。
気づいたのは、声を聞いたからだった。
「逃げたところで無駄だというのに…お陰で時間が掛かった」
「……ぁ……っ…」
淡々と言葉を紡ぐ大男に、千歳は言葉を返すことができない。
痛みが喋ることを邪魔しているのだ。それに、背中から暖かいものが流れる度に力が抜けていくのを感じていた。
そんな千歳にもう興味は無いのか剣に付着した血を払い落とし、そして後ろに向かって一礼した。
「申し訳ありません。あの場所なら誰も立ち寄らないと思っていただけに油断しておりました」
千歳に向かって放った威圧的な言葉に対して、その言葉は恭しく丁寧だった。
「いや、こうして口を閉じることが出来たのだから何も言うまい」
言われたであろうその人物が大男に対して言った言葉は、威厳があり、人を否応にも従えてしまうようなそんな響きがあった。
大男が更に畏まり、そして声の主を通す為に道を譲って下がる。
痛む傷を必死に耐えながら声をする方へ顔を向けた千歳は、何とかその主である男を見ることが出来た。
大男よりは低いが、それでも高いと思わせる身長を持っており、痩せてはいるが繊細とは言い難い体格。それをボロ布のマントで隠しているが、見るからに鍛えていると分かる。
濃い茶色の髪に真紅に燃える威圧するような鋭い瞳。スラッとしている整った鼻、厳しく引き結んだ唇。
そして何よりその男が放つ雰囲気自体が、彼の前に立てばどんなモノもひれ伏してしまうような威圧感を持っていた。
「ほぅ、黒髪に黒い瞳…珍しいな」
夜で暗かった為にマントをつけた男は瀕死の千歳を近くで見た時に、髪や瞳の色に気づいたのか物珍しそうにジッと千歳を見ていた。
「これは何処を探してもそういないだろうな。惜しいことをした…」
「それは……」
大男が多少焦って狼狽したが、その姿にマントの男は喉を鳴らした。
「冗談だ」
それに大男は溜息を吐いたが、急に真顔になってマントの男を見据えた。
「では、そろそろ戻りましょう。何分時間が掛かった為早く戻らねば疑われます」
「そうだな。途中で馬に乗れば何とか間に合うだろう」
大男は頷いたが、ふとまだ息がある千歳に視線をやった。
「この娘はどうしますか?」
「どうせもう死ぬ。放っておいてもいいだろう」
「分かりました」
頭を下げて剣をしまうと、大男はマントの男の邪魔にならないように道を譲る。
そんな中、あまりにも流れすぎた血に意識が朦朧としていた千歳は倒れこんだまま、だが必死に意識を手放すまいと奮闘していた。
しかし、それは無駄だと嘲笑うかのように意識がゆっくりと離れていくのが分かる。
どうしてこうなったのか、何故自分がこんな目にあうのか、神様がこの場にいたら盛大に呪いの言葉をかけていただろう。
この17年間普通に過ごしていたのにこんなのはあんまりだと、私はこんな所で死にたくないと、千歳はそう言って泣き叫びたい思いだった。
だが現実は、知りもしない場所で知りもしない男に殺されるというもの。
こんな死に方は嫌だった。親しい人にも会えず、何も言うことも出来ずにいるのが嫌だった。
それでも、段々と意識が刈り取られていく。死にたくないという思考も曖昧になって、何も考えることが出来なくなった。
もう何も考えられず、ただ掠れる視界を眺めている千歳。周りの音も何もかも聞こえなくなり、暗闇が視界を覆い隠していく。
もう疲れた。目を開けていたくない。考えるより本能がそう告げていた。
そして千歳が目を閉じる寸前、ぼやけた視界の中では大男がマントの男に何かを言おうとしていたところだった。
その時、何故か聞こえないはずの音がこの時だけは鮮明に聞こえた。
偶然なのか、そうでないのか分からない。そんなことを考える思考もなかった。
そして目を閉じた千歳はそれを耳にした。忠誠を誓う騎士のように厳かな言葉を。

「それでは参りましょう。ウォルグリード陛下」
「あぁ」

その言葉を最後に、千歳の意識は暗闇の中へと引きずり込まれ、それ以上男たちを見ることは無く、夢の無い眠りへと落ちていった。