Grace sorprendente  一章 2 




身体が温かい。
何かふかふかした物が覆っていて、それが千歳の身体を温めている。
凄く安心する温もりに、もう少しこのままでいたいという欲求に負けそうになったが、それを妨害するかのように何やらバタバタと音が聞こえてきた。
「もうっ、シリク!私看病してるんだから邪魔しないでよっ!」
「はぁ、別に邪魔なんてしてないだろ?寧ろ手伝ってるじゃないか」
「あんたが手伝わない方がよっぽど手伝うことになってるわよっ!」
折角気持ち良く寝ているのに、この言い合いは千歳の耳にやかましく聞こえてくる。
静かにして欲しいのに一向に騒音はやまず、むしろ大きくなっているように感じる。
煩くて我慢できなくなったのか、千歳は眉を歪めて少しでも音から逃げるように寝返りをうとうとして、突如背中に痛みが走った。
「痛っ!」
さっきまで居心地良い思いでいたのに痛みによってそれが吹き飛び、跳ね起きるように目を覚ました。
そのおかげで、またもや背中に痛みが走り悶絶しながらも千歳は痛みに涙を貯めながら顔を上げる。
「……あれ?」
知らず首を傾げて疑問の声を出してしまう。
何で私ベッドの中で寝てたんだろう、としきりに首を捻った。
それに自分の身体を見た時に気付いたのだが、いつの間に着替えたのか制服姿から質素な薄茶の服に変わっている。
それに別段気に留めず寝ぼけたように頭がまだ働かない中、今度はゆったりした動きで自分のいる所を見回した。
木で作られた部屋。質素な造りで、窓が一つにドアが一つ。そこに箪笥とベッドがあるだけのなんともシンプルな部屋だった。
そしてベッドの傍らには包帯や薬、飲み物などが置いてある。
どうやらこの包帯や薬などから千歳は自分が看病されていたらしいということを認識した。
包帯は取り替えたものと真新しいのとがあり、薬は粉薬なのか包み紙でいくつかに分けられている。
その中に血のついた包帯を見つけた千歳は、やっと自分に起こった出来事を思い出した。
「そうだ…私…切られて…」
思い出した途端、急に震えが身体を襲ってきた。
何か物騒な話をしていた二人組。千歳の背中を容赦なく切り捨てた大男。その男が付き従っていたボロボロのマントを着た男。
血が流れる度に力が抜けていき、ゆっくりと死に近づいていく感覚がまだ身体に纏わりついているようで、千歳は自分をこの世に繋ぎとめるかのように抱きしめた。
そして朦朧となった視界の中で、大男がマントの男に向かって何か言っていたのを耳にしていたのだが…。
「……なんて言ってたっけ…?」
意識を失う寸前に、確かに何か言っていた気がする。
だが、頭を捻ってみても思い出せない。しばらくその事について思い出そうとしてみたのだが、千歳はついに息を吐いて思い出すのを放棄した。
どうせ覚えてなくても問題ないと判断してのことだった。
寧ろ、思い出そうとして余計なものまで思い出しそうで怖かったからやめたといっていい。
と、そこで言い争う声が千歳のいる部屋に近づいていることを知らせてくる。
言い争いは更にヒートアップしているようで、辛辣な応酬を繰り返していた。
「昔からシリクはちょっかいばっかり!いい加減大人になったら?」
「俺はもう18だぞ。立派な大人じゃないか!」
「そういうところが子供なのよ!」
そしてついにドアの前まで来たところで、唐突に言い争う声が聞こえなくなった。
どうしたんだろうと思った千歳だが、もしかしたら部屋の中まで言い合うということは悪いと思っているのかもしれない。
すぐに扉が開いて入ってきたのは、水が入った桶と身体を拭くための布を持った少年と少女だった。
布を持った少女は歳は15、6だろうか。160cmもいっていない身長に、腰まである癖のある金髪を一つに纏めて三つ編みにして青い髪飾りを付けている。瞳は青く、綺麗というよりは可愛いと思わせる愛嬌のある顔だ。
反対に水の入った桶を持っている少年は20歳と少しに見えるのだが、18と言っていたので18歳なのだろう。少女よりは頭一つ分大きく、短く刈り上げた金髪に赤い瞳をしていて、こちらは少年ぽさが抜けた顔付きをしている。
「あ、目が覚めたのね!」
「お、やっと目が覚めたんだな」
今さっき上半身を起こしたばかりの千歳の姿を見た途端に、布を持っていた少女は目を輝かせて嬉しそうに喜び、桶を持っていた少年はそんな喜ぶ少女に少し苦笑しながらも千歳が起きたことに安堵していた。
「あの……?」
だが、千歳は状況が分からずに少し警戒したように二人を見る。
あんなことがあったばかりなのか、はたまた見知らぬ少年少女に無事を喜ばれて戸惑っているのか、その両方なのか、とにかく千歳は二人に対して進んで声を掛けられないでいた。
そんな千歳の思いを知らないのか、少女は未だ仕切りに喜んでいて、少年はそんな少女に対してため息を吐きながら頭を掻いている。
「よかったぁ!あなた道端で倒れてたのよ?背中を切られてたから盗賊か何かに襲われたのかと思って吃驚しちゃったわ。珍しい色の髪と眼をしているからだと思うんだけど…。でも、まだ息があったから急いでここに戻って手当てしたのよ?手当てしたのは私じゃないけど…」
「俺も吃驚したよ。いきなりシアが…あ、シアってのはこいつな…戻ってきたと思ったらあんたを担いで…いや、引きずってきたんだから。血がたくさん出てて皆困ってさ、医者がいたから幸い何とかなったんだけど、シアの奴安心したのかそれからピーピー泣いて、顔がもう面白いくらい涙でぐちゃぐちゃで、笑うのを堪えるのに…いてぇっ!?」
「シリクっ!余計なこというなっ!」
足を押さえて痛がる少年、シリクにシアと呼ばれた少女は真っ赤になって荒い息を吐いている。
どうやら図星だったらしい。反論はしないものの、だが今度何か言ったら容赦しないという眼つきでシリクを見てから、シアは少々置いてけぼりな千歳に向かって恥ずかしそうに微笑した。
「え、えと…ごめんなさい。見苦しいところ見せちゃったわね」
「まったくだ」
同意するシリクにシアは静かに振り返った。千歳からは見えないが、シリクが引きつった顔をしているのを見る限り、シアの表情がかなり恐ろしい事になっていることが分かる。
シリクは今度こそ黙るというように降参のポーズをとり、仕切り直すようにシアが千歳に向き直って咳をひとつ吐いた。
「あのね、私はシア。ベルツェ村のシアって言うの。貴方の…名前を教えてくれる?」
恐る恐る聞くシア。それは相手が怖がらないようにと思っての行動のようだった。
襲われる恐怖を味わったばかりなのだから慎重に聞いた方がいいということを、シアは知っているようだった。
そんなシアに千歳はだが、驚いたように固まってしまった。
それを見て、何か驚くようなことを言っただろうかと少し不安になったシアだったが、すぐに千歳が呆然と呟いたのを聞いた。
「ベルツェ…村?」
どうやら村の名前に驚いているようだが、シアはよく分からなかったらしく首を傾げた。
「そうよ、ベルツェ村。ガルバニア大陸のキリジア帝国にある辺境の村」
それがどうしたのと言わんばかりのシアに、千歳は呆然とした。
日本だと思っていた場所が、まったく知らない場所にいたらしい。
しかも、ガルバニア大陸なんて地球の世界地図を探しても無いと分かる。
「が、ガルバニア大陸?キリジア帝国?…なんなの…それ…?」
知らない、全く知りもしない大陸に「帝国」ときた。千歳はいよいよもって混乱した。
明らかに異常事態だ。こんなのはおかしい。千歳はそう思いながら頭を抱えた。
何がなんだか分からなくなってきた。朝は確実に日本にいた。それが記憶が抜けている間に知らない場所にいて、しかもここは日本じゃない。
頭がおかしくなりそうだった。いっそのことおかしくなった方がいいとさえ思った。
頭を抱えた千歳にシアはうろたえて困惑していた。この大陸出身の者たちなら大陸の名前も帝国の名前も一度は耳にするはずなのだが、目の前にいる少女が全く知らないということが信じられなかったのだ。
「あなた、ここがどこだか分からないで来たの?」
「………」
来たくて来たわけじゃない!
そう言い返す気力もなかった。強いショックで頭が酷く痛い。その痛みなのかショックからなのか、千歳は目から大粒の涙を流した。
家に帰りたい、強く心の奥からそう思った。父と母に会いたい、友達に会いたい。親しい人が一人としていないことに千歳の心は悲鳴を上げていた。
そんな千歳のすすり泣く声が暫らく部屋の中に響いていたが、唐突にシリクが気まずそうにしながら言った。
「あー…ここは俺がいない方がいいか?」
「……逃げる気?」
シアは、この薄情者!という視線を隠そうともせずにシリクを見る。
シリクはそんなんじゃないと慌てて否定すると、苦笑いを浮かべて千歳を見た。
「ここは同性同士の方が話しやすいだろ?」
「……そう、かな?」
納得出来ないといった風なシアに、シリクは「そうだよ」と苦笑して言ってから静かに退室していった。
出て行く前に、「飯作ってくる」と言ったのは、終わったら呼んでくれというシリクなりの気遣いだろう。
「えと、だいじょう…ぶ、じゃないわね」
シリクが出て行った後、シアは手探りするように千歳の反応を見て泣いている千歳にゆっくりと落ち着くように、安心できるように手を握った。
その手を握る柔らかい感触や優しさに千歳は更に涙が溢れたが、知らない場所に来てから今までなかった温かさに荒れた心が少し癒されて、数分経ってからようやく涙をとめることが出来た。
「…………あり、がと」
泣き止みながら感謝の言葉を紡いだ千歳に、シアは少し吃驚したような表情を見せたが直ぐに微笑んで首を振る。
「ううん、気にしないで。…それじゃ、もう一度聞いてもいいかな?貴方の名前」
泣いている間黙ってただ千歳の手を握っていたシアは、そう優しく諭すように尋ねてきた。
ゆっくりと、千歳のテンポに合わせて話そうとするような言葉に少し緊張が解れたのか、泣き止んだばかりなのに意外にもはっきりした声が出ていた。
「早川、千歳」
「ハヤカワチトセ?長い名前ね」
首を傾げるシアに千歳は最初きょとんとしたが、我に返ると慌てて言い直した。
「ち、違うっ……千歳が名前で、早川が苗字なの…」
「え?ハヤカワが苗字っ!?それじゃ、あなた貴族の出なの!?」
「き、貴族?」
千歳は何を言ってるの?というような顔でシアを見たが、シアは驚いたまま見詰め返してくる。
「だって、ハヤカワって家名を持っているから…」
「家名だけど…貴族ってお金持ちとかの人の事よね?」
「別にお金持ちだけじゃないわ。他にも権力や血筋、社会的な地位を持っている人のことを言うの。この国ではそれらを持つ人や成り上がった人が自らの家名を付けることが出来るのよ」
千歳は頷いた。どうやらここでは貴族は必ず苗字がついていて、それ以外はつかないということらしい。
「だから、家名を持っているあなたを貴族と思ったんだけど…」
違うの?というような視線を受けて、千歳はそんな立派なものじゃないと直ぐに否定した。
貴族よりもシアと同じようなものだと説明するが、シアはあまり納得出来てないようだった。
それでも根気よく否定し続けて、貴族じゃなくて普通の家庭だと言い聞かせるのに時間が掛かった。
「それじゃあ、あなたの国は貴族じゃなくても家名をつけるの?」
「そうだよ。私の国では特別珍しいことではないの」
珍しいことではないという千歳の言葉に、シアが顔をしかめたのが分かった。
その表情を見て、流石に千歳は苗字を名乗るのを止めた方がいいと判断し、千歳でいいと苦笑しながら言う。
一応それでシアも取り合えず分かったと頷いたのだが、少し考えながら千歳に問いかけるように口を開いた。
「チトセ、あなたの国の名前を聞かせてくれる?」
その言葉に千歳の心臓が一瞬強く跳ねる。
「どうして?」
「だって、家名を持った民衆がいる国があるなんて知らなかったけど、もしかしたら名前だけでもどこかで聞いてるかもしれないじゃない…?」
戸惑いつつも応えるシアに千歳は自らの拳を強く握った。
少し震えつつ、それでもシアを見詰めながら言葉を発する。
「日本っていう国」
「ニホン?」
「そう、英語でいうとジャパン」
「エイゴ?ジャパン?…うー…んー……やっぱり、知らない国ね。少なくともここガルバニアの大陸では聞かないわ」
その言葉に、千歳が無意識に縋っていた希望は見事に砕かれた。
やっぱり、ここは日本がない世界なんだ。それどころか、知っている国も大陸も海も何もかもがここにはないんだ。
「………そう」
ゆっくりと、現実をかみ締めるように言葉を吐く。
どうして何もかも知らない世界に来てしまったのか分からない。色々と不可解な点が多くてちんぷんかんぷんだ。
それでも自分は今ここにいる。何が起きたか分からなくても、こんな所に来てしまったのはこの際仕方ないと物凄く不本意ながら割り切って、これからのことを考える必要がある。
いつまでもくよくよして、何も受け入れないように逃避しても始まらない。
そう考えられるようになったのは、きっと千歳の目の前の少女が泣いている間、手を握って荒れた心を少しでも癒してくれたからだろう。
千歳は意を決したように顔を上げると、急に顔を上げた千歳に吃驚しているシアに向かって勢いをつけるように口を開いた。
「あのっ!」
背中の痛みに一瞬顔を歪めながらも真剣な表情でシアを見る。
あまりにも真剣な表情に大事な話なのだと理解したのか、シアも身を引き締める思いで見返してきた。
拒否されるかもしれない。図々しいことなのは分かっているが、今はこの少女しか頼める人がいないのも事実だった。
ごくりと喉を鳴らしお互いが緊張した雰囲気の中、当たって砕けろっ!と自分に渇をいれて口を開きかけた。

ぐぅ〜〜

「…………」
「…………」
突如、千歳のお腹が鳴った。
音は静まり返った部屋に十分響き、もしかしたら部屋を出て行ったシリクのところにまで届くかもしれないというほど大きかった。
口を開きかけたままの千歳は、唖然としてしまったシアに対してすかさず言った。
「ごはんください」
直後、穴があったら入りたい気分であまりの恥ずかしさに真っ赤になり自己嫌悪している千歳に、我慢出来なかったのかシアは腹を抱えて涙を浮かべながら笑った。
「あ、あなたっ…真剣な顔してご飯くださいってっ!」
「うぅ…」
もうどうにでもしてという様に落ち込む千歳に、シアはひとしきり笑って満足したのか、笑顔のまま手を差し出してきた。
「それじゃ、ご飯にしましょう。真剣になるほど空いてるなら早く食べた方がいいわ」
「…ご飯食べたくて真剣になった訳じゃないのに…」
千歳がそう呟くのが聞こえたのか、シアはクスクスと笑いながら差し伸べた手を千歳が取るまで待つ。
「でも、お腹が空いてたら力が出ないじゃない。それに…」
意地悪そうな笑みを浮かべて先程盛大に鳴った千歳のお腹を見て、
「またお腹が鳴って恥ずかしい思いをしたくはないでしょ?」
これには全面的に同意なのか千歳は羞恥に赤くなりながら頷き、シアに促されるように手を取って立ち上がった。
意外にしっかりと立った千歳にシアは笑顔を向けて、千歳に合わせる様に手をゆっくりと引いて先導するように歩いた。
「シリクがご飯作ってると思うから、それを食べ終わったら話し合いましょう」
「うん」
千歳は頷いてシアに手を引かれながら、シリクが待っているという台所へと移動していった。