Grace sorprendente  一章 7 




夜中近くになると、夕食の騒がしさとは打って変わって皆寝入ってしまったのか静かだった。
寝室に戻った千歳は窓の外を見ながら何となく拾われたから今までのことを思い返していた。
あの切られた時からこうしてお世話になり続けて過ごし、今ではもう村の者たちと親しく話すくらい馴染んでいる。
迷惑を掛けた事もあるし、褒められた事もあった。心配された事もあるし、怒られたこともあった。
それらが、今の千歳の胸を締め付ける。
あの湖でミルカと話した時からこの時までの間で、帰りたいという思いが強くなっている。
「……はぁ」
重苦しい息を吐く。とてもじゃないが、今日は眠れそうになかった。
すると、扉を控えめに叩く音が千歳の耳に入った。
「誰?」
「私よ、シア」
千歳が扉を開けると、寝間着姿のシアが立っていた。
「ちょっといい?」
「え……うん」
戸惑いつつも千歳はシアを中に招き入れる。
この時のシアは三つ編みを解いているのか、緩いウェーブが掛かったような髪だった。
「ここ座るわね」
微笑みながらシアは千歳のベッドに腰を下ろした。
千歳も頷いてシアの隣に座る。
座ってからは二人とも喋らない。千歳はただ黙っていた。シアがこの時間に来ることがなかったから戸惑っていたのもあるし、シアがここに来たと言うことは何か言いたいことがあるのかなと思ってのことだった。
と、座ってから暫くしてシアがポツリと呟く。
「チトセがここに来てからもう何年か経った気がするわ」
「実際はそんなに経ってないのにね」
「そうね。なのに一緒にいるのが楽しくて、つい小さい頃から一緒にいたような錯覚をしてしまうわ」
シアのその言葉に千歳は嬉しそうに頷く。千歳も、シアとシリクが昔から一緒にいたように思えていたからだった。
「私もそう思ってた」
その言葉にシアも嬉しそうに笑ってくれて、それから少し意地悪そうに千歳をみた。
「今だから言うけど、最初の頃はチトセったら怖がってて何だか小動物みたいだったわ」
「しょ、小動物…?」
「ええ、シリクの前だと特にそうだったわね。今思い返すと面白いわ」
クスクスと笑い出すシア。どうやら千歳の怯えっぷりを思い出しているようだが、千歳としては面白くない。
なので、反撃することにした。
「シア、シリクさんと最近どうなの?」
この一言でシアはビクッとしてから咳き込んだ。
「い、いきなり何をいうのよ」
「だって、気になったから」
少し頬を赤らめたシアが千歳を睨む。だが千歳はそれに動じず、にこにこしながら見詰め返した。
暫らくそうしていたが根負けしたようにシアが溜息をついて、あいかわらずよと言うなりベッドに倒れこんだ。
「シリクったらバカばっかりするだけだから、ついついそれに甘えちゃうのよね」
「うーん…もう日常茶飯事だからね…」
シアとシリクの言い合いは本当に毎日続いている。見てる方は楽しくて飽きないのだが、シアにとってはちょっといただけないらしい。少し声を落としながらシアは話した。
「もう少し、私を意識してくれてもいいと思わない?」
「それは言えてるかも…」
苦笑する。異性間である甘酸っぱい出来事が二人には一つもないのだ。だからこそ、こうしてシアはヤキモキしている。
色々と二人でどうしたらいいかと、いつの間にか恋愛話になっているのにも気付かず話していた時、千歳は閃いたように声を上げた。
「意識させるようにシリクさんに何かしたらいいんじゃない?」
「何かって…何よ?」
「例えば……抱きついてみたり?」
「それは…前にしてるわ」
「したんだ…」
若干引き気味に笑いながら、それでも意識しないというシリクを少し殴りたくなった。
「そ、それじゃあ…胸を当てたり…」
「む、胸っ!?」
これには真っ赤になって起き上がってシアは千歳を見た。
確かにそうすればあの鈍感なシリクも意識するかもしれない。そう思うシアだが、自分の胸を見ながらポツリと一言。
「大丈夫かしら…?」
(…微妙かも)
千歳は心の中で返答していたが、流石に口に出せない。なので心とは反対に大丈夫だよと言ってシアを勇気付けた。
すると、シアも戸惑いながらもやってみると赤い顔で頷く。
「もし上手くいったら言ってね」
「ええ、頑張って…みるわ」
「その意気その意気」
千歳は微笑ましいような気分でシアにそう言うと、窓の外を見た。
シアも、千歳に習うように窓の外をジッと見詰める。
さっきまで話してたのが嘘のように沈黙が支配していた。だが、決して嫌な雰囲気ではない。寧ろ安心できる。
そうして、数分何も言わず二人で外を眺めていた。
「チトセ、今日どうかした?」
沈黙を破ったのは、やはりシアのほうだった。
「どうかしたって?」
「湖でおば様と二人でいた時から様子が変だったから」
「………」
「何を言われてたか知らないけど…」
シアはジッと千歳を見る。千歳は少し笑ってから、話すために口を開いた。
故郷のことが夢に出たこと、シリクの家族を見て自分の家族を思ったこと、湖でミルカと話して帰りたいと思ったこと。
ゆっくりと、時間をかけるように話す。シアはそれに一切口を挟まずに聞いていた。
そして、話終えて俯く千歳にシアは言った。
「それで、どうするの?思っただけで終わるの?」
千歳は首を振る。今はもう思うだけではダメだ。
厳しく怒ったりもするが優しい母、口下手で不器用ながらも愛してくれる父、いつも一緒にいてくれた親友。
その光景がふと考えただけで直ぐに浮かんでくる。そして、夢を見た時よりも胸が苦しくなっていた。
俯いたまま、千歳は肩を震わせる。
「会いたいに…決まってるよぉ…」
少し涙声になりながら、千歳はついに言った。
今まで心の中では会いたいと思っていたが、口にしたのはこれが初めてだった。
そして、途端に我慢していたものが堰を切って溢れてくる。自分がこれほど我慢していたのかと驚くほど、会いたいと繰り返した。
「チトセ…会いたいなら…分かるでしょ?」
シアの声に千歳は頷く。分かっている。
そっと優しく手を握るシア。それが勇気を分けてくれた気がして、小さく、聞こえるかどうかの声で故郷に帰ると千歳は言った。
シアは微笑んでからそっと千歳を抱きしめる。
「チトセ、我慢してたのね。それに気付かないであげられなくてごめんね」
「シアは、悪く…ないよ」
抱きしめるシアの腕が温かくて、その腕に身を任せる。
「…チトセ、今まで…ありがとね」
「私も……ありがと…」
そして千歳もシアの背中に手を回し、抱きしめた。精一杯の感謝を込めて強く強く抱きしめた。
それから二人は一緒に寝ることになり、ベッドに入った。千歳はこの時、修学旅行のような感覚を思い出しながらシアと遅くまで話した。
「いつ、ここを出るの?」
千歳は少し考えてから答えた。
「準備が必要だと思うから…あと2、3日したらここを出発する」
「そう、それじゃあそれまで精一杯楽しまなくちゃね。シリクもおじ様おば様も一緒に」
「うん!」
そして、準備には何が必要か、食料や金銭の問題などについてを話し終えて二人は眠った。
翌日、千歳が村を出るということを話されたシリクたちは、寂しくなると言った後に早く家族に会えるといいなと笑ってくれた。
千歳も笑顔で返して、今までお世話になったことを伝えてから準備を始めた。
シリクや両親、シアは仕事があったのだが、グンターに事情を説明して特別に許してもらって千歳の準備を手伝うことにしたようだ。
シリクは相変わらずシアとバカをしながら手伝って、アランとミルカは金銭や保存の利く食料、服などを用意してくれた。
金銭について遠慮していた千歳だったが、アランとミルカが頑として譲らなかったので感謝を述べてそれを大事そうに受け取った。
多少荷物が多くなったが、まだどこにあるかも分からない故郷へと帰るのだから困ることはない。
当ての無い旅になることは分かっている。だが、何かしら手がかりを掴むことが出来ればきっと大丈夫だと自分に言い聞かせて、千歳はあれこれと準備に必要なものを詰め込んでいった。
準備が終わったのは夜だった。
一人旅だからあれこれと必要なものを渡されたりして、流石に持ちきれないから選んでいたらこの時間になってしまっていた。
「チトセ、夕飯できたから食べましょう」
部屋で何となく寛いでいた千歳にシアが呼びに来た。
千歳は分かったと言って一緒に行くと、シリクや両親が笑顔で出迎えてくれた。
「お、来たな。今回の主役」
ちゃかすようにシリクがそう言うと、アランが笑って千歳の座るであろう椅子を引いてお辞儀をする。
「お嬢さん、お席はこちらになります」
何ともわざとらしい言い方に思わず笑ってしまった千歳だが、礼を言って椅子に座る。
ミルカはそれに微笑んでから、千歳に深い皿に入ったスープを渡してくれた。
今回も並べられた料理が沢山あり、食べきれないかもしれないと思わせる量だった。
「チトセちゃん、たくさん食べていてね」
「チトセだけじゃこの量は無理だと思うわよおば様」
にこにこ顔のミルカに呆れ顔のシア。千歳はミルカに笑顔でお礼を言った後直ぐに真顔になって付け加えた。
「シアの言うと通りです。私こんなに食べたら太っちゃいます」
瞬間、シアたちは声を上げて笑った。シリクとアランはもう少し肉がついた方が良いと言い、ミルカとシアはそれなら無理しないようにと言った。
そして、ようやく笑いを納めてから食事の準備が出来たのか皆席に着く。
千歳も並べられた料理にお腹が鳴るのを我慢しながらシアたちがお祈りするのを待った。
だが、ここで始まるはずのお祈りが一向に始まらないことに疑問を抱いた千歳は、シアたちの視線が自分に向けられているのに気付いて困惑する。
「え、えと…どうしたんですか?」
「チトセのお祈りってどうやるんだっけ?」
戸惑う千歳に、シリクがそう言ってきた。シアもアランもミルカも、シリクと同じように見てくる。
「私の…お祈り…ですか?」
シアが頷いた。
「ええ、最後だしチトセのお祈りを皆でしようって思ってたの」
「豊穣神ラジェルもこの時はそうしろって言ってるさ」
シアに続いてシリクがそう言う。アランとミルカもそれぞれ頷いた。
「一度でいいからチトセのお祈りを言ってみたかったっていうのもあるけどね」
これに千歳は前の事を思い出して言った。
「長くて面倒臭くないから?」
「そうよ!」
「おい、俺の台詞を取らないでくれよ」
面白そうに同意するシアに、シリクはやられたというように両手を挙げた。
「じゃあ、改めて…チトセ、お祈りを教えてくれる?」
シアの言葉に、千歳は笑顔で答えた。
「両の掌を胸の前で合わせてからお祈りします。私の後に続いて言って下さいね」
説明してから千歳は見本を見せるように先に手を合わせる。それにシアたちも習って手を合わせたのを確認してから言った。
「…いただきます」
「いただきます!」
その直ぐ後にやはりシリクとアランが料理を取り合ったり、シアが呆れた様に見ながら自分の食事に手をつけたり、ミルカがクスクスと笑いながらしっかりと取り合っている二人の料理を均等にしていたり、今回も賑やかな食卓となった。
千歳は、暫らくその光景を見ていた。
いただきますと何人かで言うのが久しぶりで、胸が温かく感じていた。
少しだけ、故郷にいるような感覚。何もかもが違う場所で懐かしい光景を見れたような気がして、それが千歳を嬉しくさせた。
そして、強く心に刻み込む。
この村に拾われてから短い間だったけど、ここで過ごした日々を絶対に忘れないように。


◆◆◆◆


次の日の朝。千歳はシア、シリクの二人と向き合っていた。
シリクの親であるアランとミルカは千歳をロンダーまで乗せていってくれるらしく、荷馬車の準備をしている為なのかここにはいない。
「いよいよね」
そう言うシアに千歳は苦笑しながら頷いた。やはりこういう別れは寂しいものだ。
すると、シリクが頭を掻きながらそっぽを向いて言った。
「何だか、最近知り合ったばかりだったのに今まで何年も一緒にいたような気がするよな」
これを聞いた千歳とシアの二人は吹き出した。まさか三人共同じようなことを考えていたなんてと思い、笑ってしまったのだ。
シリクだけは、俺変なこと言ったかとしきりに首を捻っている。
「何でも無いですよ。思い出して笑ってしまっただけです」
「そうよ。まぁ、シリクが変なこと言うのは何時もの事だけど」
「お前がきつい事を言うのも何時もの事だよな」
三人とも顔を見合わせてクスクスと笑いあう。お別れをするとしても辛気臭いのは性に合わないらしく、いつものように話し合った。
そこにルーシィやグンターなども来て、千歳との別れを惜しんだ。
千歳も、ルーシィやグンターにお礼を告げて寂しくなる思いを押し込めて笑顔で接する。
暫らくして、アランとミルカもやってきた。どうやら荷馬車の準備が出来たらしく、後は千歳が乗るばかりだ。
「それじゃ皆さん、今までお世話になりました」
ぺこりとお辞儀をする千歳。
「チトセ、元気でね」
「怪我とか病気に気をつけろよ?」
シアとシリクがそう言ってにこりと笑う。
「チトセが居なくなるのは寂しいわね」
「また、いつでもここに来て下さい」
ルーシィは寂しそうに微笑んで、グンターは顔に似合わない丁寧な言葉でそう告げた。
「じゃあチトセちゃん、荷馬車に乗ってくれる?」
一通り別れの挨拶を済ませると、ミルカが荷馬車に乗って言った。
アランは千歳が荷馬車に乗れるように手を貸そうと待っている。
「はい」
千歳は頷いて、アランとミルカの待つ荷馬車に乗ろうとした。
「チトセ!」
その時、千歳が声に振り返ったと同時にシアに抱きしめられた。強く強く抱きしめてくるその感触が、あの夜のことを思い出させる。
「チトセ…。私達、まだ知り合って短いけど…親友よね?」
千歳の肩にシアは顔を埋める。この時、シアの身体が震えているのが分かった。
「うん…親友だよ」
震えに気付かない振りをして千歳は抱きしめ返す。そして、離れてから見合ってお互い笑う。
シアの目は少し潤んでいた。
「行くね」
「ええ」
シアは頷いた。そっとお互い手を名残惜しそうに離す。
ちょっとしんみりした空気になったが、何だかこれは違うと思ったのか千歳は急に何かを思いついて笑い、シアに近づいて耳元で呟いた。
「近いうちにシリクを意識させてね」
「っな!?」
夜に話したことを覚えていただろうシアは真っ赤になり硬直した。
そんなシアが面白くてクスクスと笑う。シアは真っ赤になりながら千歳を睨んだ。
「最後の最後でそれ!?」
「私たちらしくて良いと思ったんだけど?」
そういって尚笑う千歳に、シアは溜息を吐いてから笑った。確かに、この方がらしいと思ったのだろう。そして開き直ったかのような顔で千歳に告げた。
「いいわ。おじ様おば様が居る内にやってやろうじゃない」
「わぁ、頼もしい!」
はしゃぐ千歳とシアに、離れたところにいたシリクとルーシィは揃って首をかしげた。
「何をやるんだ?」
「さぁ、聞こえなかったから」
千歳とシアのじゃれ合いを見ながら二人は考えたが、分かるはずも無いままやり取りを見ていた。
ようやくはしゃぎ終わったのか、千歳とシアは言葉の代わりに手を握り合う。
ちょうどそこで荷馬車で待っているアランとミルカがそろそろ出発すると告げたので、千歳はそれに返事をしてシアの手を離してからアランに手伝ってもらい荷馬車に乗った。
荷馬車に乗ってから千歳はシアたちに顔を向ける。
シアたちは揃って笑顔で千歳を見ていた。
「それじゃ…またね」
一言、千歳はシアたちに言った。元の世界に戻ってしまったら会えるはずが無いのに、そう言いたかった。
「ええ、絶対また会いましょう」
「その時はまた盛大に歓迎するからな」
「うん!」
シアとシリクは揃って笑顔で言う。千歳も笑顔で返し、そして荷馬車動き出して村から出て見えなくなるまでずっとシアたちに手を振った。
ゆっくりと離れていく、今まで楽しい思い出をくれた場所。
「絶対、絶対また来るから!」
村からどんどん離れていく中で千歳はシアたちに向かって叫んだ。いつかまた、この村に訪れる日を思いながら。
そして千歳は旅に出る。元の世界に戻るための旅へ。だが、千歳はまだ知らない。
この旅が国の存亡を賭けた戦いの始まりとなる事を。そして、歴史的な戦いに少女の名が記されることを。
荷馬車に乗りながら空を見上げる今の千歳には、まだ知る由もなかった。