Grace sorprendente  二章 2 




赤髪の男は階段から動かない。ジッと、いや寧ろ睨むように千歳を見ている。
千歳もその視線から目を逸らさず見詰め返している。というよりも、冷や汗を流しながら固まっているせいで逸らすことが出来ないだけなのだが。
「あんた、何してるんだ?さっさと部屋に行きな」
固まって立ち止まっている千歳に気付いたのか怪訝な表情をする中年男。だが赤髪の男と対峙していると分かると、直ぐに面倒臭そうな表情をして厄介払いするように手を追い払うように振った。
「は、はい」
声を掛けられた千歳は素直にそう答える。だが、一向に足が向かない。部屋に行くには階段を上らないといけないのだが、そこにはあの赤髪の男が待ち構えているように立っている。
(近寄りたくないって思う人と何で接触しちゃうのよ私は…)
そうやって自分に対して怒っていると、唐突に赤髪の男が動いた。ゆっくりとした動作だが、段々と千歳の方へと近づいてくる。
それに気付いた千歳は多少怯えたように肩を震わせた。
睨まれながら近づかれると、背が大きいのも相まって迫力がある。不良に絡まれたらこんな感じだろうか。
このときの千歳はそう思っていて、ビクビクと震えながら男が近づくのをただ見ていた。
そして赤髪の男が目の前で止まる。と、ここでようやく千歳は顔をぎこちなく動かして視線から逃れるように俯いた。
今の千歳にはあの鋭い視線を間近で見返すことなんてできない。千歳は居心地が悪そうにしながらもジッと下を向いて顔をあげないようにした。
そうして暫らく俯いていると、今まで黙っていた赤髪の男が口を開いた。
「どうしてここにいる?」
「え…?」
はっきり言われたのだが、理解できずに千歳はつい顔を上げて男を見てしまった。
目の前にいる男は、鋭い目を向けながら言葉を発さないで千歳の反応を見ている。
それに戸惑う千歳。どうしてここにいると言われても、宿を探していたけど全然見つからず夜になって本格的に焦り始めていたら、やっとここの宿を見つけて泊まりに来たところに男がいたという、別に特別なこともない偶然の出来事だ。
知らないからこそ赤髪の男がいたことに驚いていたのだが、赤髪の男はどうやら違うことを考えているらしく、無言の圧力を掛けてきている。
これは早く説明しろという催促だろうかと思いつつ、千歳は冷や汗を流しながらここに辿り着くまでの事を話した。
「………」
「あ、あの……以上です、けど…」
ぽつぽつと説明し、話終えた千歳は恐る恐る男の顔を見る。
すると赤髪の男は暫らく考え込んだ後に何を思ったのか、そうじゃないなら良いと言って直ぐに千歳の横を取って外へと出て行った。
なんだったのだろうか。千歳は少し冷や汗を流して立ったまま出て行く男の後ろ姿を見ていた。
だが、いつまでもジッとしていると中年男から何か言われかねない。現に中年男が機嫌悪そうに睨んでいる。
千歳は慌てて中年男の言う二階の奥の部屋へと荷物を持っていった。
そして、
「うわぁ………想像以上」
中年男が言った部屋に着いて中を覗いた千歳の一言が、その部屋の様相を表していた。
ランプで明かりをつけた部屋の中は、木造なのか所々腐って変色しているし、湿っているのかカビ臭い匂いが充満している。床も何かをこぼした様な跡がついているのか、所々黒ずんでいる。
だが、それだけじゃなかった。部屋の中にはベッドと椅子、小さいテーブルがあるだけなのだが、ベッドは布が汚くボロボロで、明らかに手入れも何もしていない事がわかる。そのせいかベッドを手で軽く叩くだけで埃が物凄くたち、触ると砂がついているのかザラついた感触がしてとてもじゃないが寝転がって眠れない。
椅子は少し凝った感じのアンティークが施されたものなのだが、かなり歪んでいるのか座ると斜めにガクガクと大きく揺れる。また少し乱暴に扱おうものなら簡単に壊れてしまいそうな危険がある。
最後にテーブルなのだが、千歳はしゃがんでテーブルを真横から見てみた。
「何、この傾き」
ポツリと呟く。
テーブルは水平になっておらず、斜めに傾いていた。木で出来ているのだから多少傾く事はあるかもしれない。だが、このテーブルは多少どころではなかった。
まず、こんな所の上に物を置けば床に一直線だ。いや、それよりもテーブルの乗せる部分が耐え切れずに壊れるか。
「この上に物は絶対に置かないようにしよう」
千歳はそう決意した。
その後、まず部屋を掃除しようと荷物を置き、換気をする為に窓を開ける。そして、ベッドの布を窓の枠に掛けて埃と砂を落とした。
匂いが気になるが、ザラザラした感触はなくなったので今日はこれで我慢することにして寝るためにベッドに入る。
本当はシャワーを浴びたりして身体を綺麗にしたかったのだが、生憎とここにはそんなものはないので着替えるだけにしておいた。
身体を綺麗にするのは後にするしかない。部屋も最低限は綺麗にしないと今のままでは安らげない。
ベッドに入った千歳は、それを纏めて明日やらないとと思いながら眠りについた。


◆◆◆◆


次の日、千歳は朝食を食べるためにフード付きローブを着て市場なるところへと出歩いていた。
中年男に朝食のことを聞いたら自分で買って食えということを言われたのだ。
もちろん、部屋に鍵を掛ける事が出来ないのでしっかり貴重品を持っていくことを忘れない。
市場に着くと、千歳は最初に来た時のように珍しそうにその光景を見ていた。
市場は朝から人が多く、やはり色々と売りつけるように大声で売り込んだりしている人が多い。
その中を千歳も歩きながら色々と物色した。やはりベルツェ村に居た時より見た事もないものが沢山あって目移りしてしまう。
「ちょっと、そこのあんた!良い物があるよ!少しだけでいいから見ていっておくれよ!」
と、そんな千歳に恰幅の良さそうな40代の女が声を掛けてきた。
「私ですか?」
「おや?あんた女かい?てっきり男かと思っちまったよ」
そういいながら朗らかに笑う女。
確かに黒い髪を隠す為にフードをしているからぱっと見るだけはわからない。精々小柄な少年に見えるくらいだろう。
千歳は笑う女に苦笑した。
「まぁ別に男だろうが女だろうが商売するのには関係ないけどね」
女はそう言うと、箱の中に入れてある品を千歳の前に取り出した。
「あんた見た感じ細いからもっと肉をつけないといけないよ。ほら、これを食べれば肉がつくよ!」
「え?こ、これですか?…あの…これって何ですか?」
千歳は戸惑いながらそれを見る。
何か食べ物だというのは分かる。だが、色がおかしい。真っ黒のだ。
「ん?あんたこれ知らないのかい?ここら辺じゃ良く知られるものなんだけどねぇ」
「えっと、私かなり遠いところから来たので…」
「遠いところ?それじゃあ知らないのも当然なのかもね。これはね、ベルケっていうのさ」
「べるけ?」
首を傾げる千歳に、女はベルケと言われるものを持ちながら頷いた。
「そう、ベルケ。小動物で結構すばしっこいのが特徴だね。小さいから食用として携帯する奴らも多いよ」
「へぇ」
感心しながら頷く千歳。
「それじゃあ、黒くなってるのはどうしてですか?」
「これは味付けされたベルケを大きな葉っぱで巻いて、その上に泥をつけて土が焦げるまで焼いたものさ。こうすれば少しは保存も良くなるからね」
しげしげと見ながら千歳はなるほどと思った。どうやら黒いのは土を焦がしたものらしい。
そんな千歳に女はにこにこ笑うというより豪快な笑みを見せると、手に持ったベルケを差し出した。
「あんたこれ食べた事がないんだろう。一つどうだい?初めて食べるだろうから安く売るよ。あ、2つ食べるならこの野菜もつけるよ!あんただけサービスだ!」
次々に出される女の商売文句や見えない圧力に千歳はタジタジになる。
市場の人たちはこうやって上手く商売して儲けているのだろう。
結局、千歳は勢いに負けたのかベルケ2つと野菜を買って、またいつでも来なよという女の声を背中に聞きながら歩いた。
朝食にしては少し多い気もしたが、折角買ったのだからどこかで休みながら食べる事にして赤髪の男とぶつかった噴水まで来た。
そしてそこにある長椅子に座ってベルケを食べる為に土と葉っぱを剥がす。
そうすると、中から程よい焼き加減の肉が見えた。見た目は炭火で焼いた鶏肉のようだ。
これなら大丈夫かもと思っていた千歳は見たことがあるような食材に油断したのか、鼻に香りが漂った瞬間、思い切り咽た。
「な、何この匂い!」
ベルケ特有の匂いなのか、あまりの強烈な刺激臭に涙が出てくる。
だが、嗅いだこともない匂いなので何かに例えることが出来ない。
鼻が痛くなるようなツンとした匂い。この刺激を例えるなら山葵を食べた感じに近いかもしれない。
これは好んで食べるような物でもないとさえ思ったし、これを好きで食べる人がいたら凄いとも思った。
千歳は、涙を滲ませながらこの時点でもうベルケを食べる気がなくなっていた。
「でも、折角買ったんだし…」
あの豪快に笑う恰幅の良い女を思い出す。あれだけ勧めてくるのだから美味しいものだと思った。
だが、もしかしたら騙されたのかもしれないと商売女を多少恨みつつ匂いを嗅がないように手を合わせていただきますと言ってから、息を止めて肉に噛り付いた。
「……………ん?」
と、千歳はもぐもぐと口にしながら首を傾げる。
肉は焼きたてではないのに柔らかく、簡単に歯で噛み切れる。味は例えるならチャーシューだろうか。なのに脂濃くはなく、さっぱりした味わいだ。
だから千歳は一言ポツリと声を出した。
「おいしい」
予想を裏切っての美味しさ。どうやら匂いに思い切り騙されたようだ。匂いは相変わらずだが、食べると不思議とそんなに匂わなくなる。
そういえばベルツェ村にいた時にも同じように見た目とかに騙された事があったと思い出す。
もうなんだか食事に関して段々頭が混乱してくるような思いになりながら、溜息を吐くだけに留めると千歳はベルケと野菜(生でも食べられる)を時間を掛けて食べた。
「さて、これからどうすればいいか考えないと」
時間を掛けて約20分で朝食を終えた千歳は、立ち上がるなりキョロキョロと辺りを見渡した。
異世界であるここから日本に帰るということを前提としても、今ここで何をするべきなのかまだわからない。
ヒントもアドバイスもない。だが、動き出さないことには始まらない。
なので、まずはこのロンダーの中を歩いてみることにする。
今千歳がいる噴水は街の中心なので、目立つところから行ってみようと城の方に進むことに決定した。
そして、歩きながら周りを眺めているのだが特に珍しいものはない。石造りの家が立ち並んでいる中でポツポツと飲み屋や武具を扱う店などがあるくらいだ。
それでも、千歳は日本とは違う景色を見ながらゆっくりと見て回った。
「こういう建物だけを見ると異世界っていうより外国に来たって感じがするなぁ」
それでも、やはりどこか違うところもあるのだろう。
そうして千歳が周りを見ながら角を曲がろうとした時、千歳のお腹くらいの背丈をした子供が突っ込んできた。
よそ見している千歳は当然の事ながら気付いておらず、子供は叫ぶように声を出した。
「どいてどいてー!」
「え?…きゃっ!?」
よほど慌てているのか汗を掻きながら走ってくる子供に、千歳は驚いて動くのが遅れてしまい、避ける事も出来ずに子供とぶつかって一緒に倒れた。
「いったぁ…」
ぶつかって倒れた拍子にお尻を打ったのか、ジンジンと痛みを訴えている。なんだかぶつかる事が多いなぁと思いつつ、千歳は突進してきた子供を見た。
色の抜けた茶色の髪はボサボサで、服装も布を継ぎ接ぎして着ている様な感じだ。顔はまだ分からないが、男の子だろう。大体見た目10歳くらいの少年だ。
その少年も一緒に倒れたのだが、千歳がクッションになっていたのか直ぐに立ち上がった。その顔はまだまだあどけなさが残っていて、腕白な子供だと見て分かる。特徴らしいものはないが、しいて言えば鼻に傷がある事だろうか。
そんな少年が、倒れて座り込んだまま自分を見ている千歳に向かって怒り任せに口を開いた。
「どいてって言ったじゃないか!」
「あ、うん。ごめんね」
怒り心頭に発してしる少年に千歳は多少気圧されながら避けなかった事を謝罪する。
子供なのだから自分が怒るのも大人気ないと思ったのもあってか素直に口にすることができた。
しかし少年はそれでも怒りが収まらないのか、更に言葉を放つ。
「急いでるのにぼーっとしてるなよ!このバカ!遅れたらお前のせいだからな!このバカ!」
(二回もバカって言われちゃった)
「他の奴らに先を越されないように先回りしてたのに、これじゃあ意味がなくなっちゃうじゃないか!」
悔しそうに顔を歪める少年。何か競争でもしているのだろうかと千歳は思ったのだが、そんなことは分かるはずもない。
「いいか!もしお前のせいで負けたら承知しないからな!この軟弱男!」
「って、ちょっと待って!」
最後何か聞き捨てならない言葉を聞いて千歳は叫んだ。
「今なんて言ったの!?」
「は?だからお前のせいで負けたら承知しないって」
「その後!」
必死に言い募る千歳に多少圧されたのか、少年は嫌な顔をしながらも千歳に向かって言った。
「なんだよ、僕にぶつかって倒れる奴だから軟弱男だって言っただけじゃないか」
「私女だよ!」
「………え?」
瞬間、そんな馬鹿なという表情をする少年。
その顔をはたこうかとも思った千歳だが、何とか我慢した。
兎に角、男と間違われるのは嫌だとばかりに言葉を放つ。
「なんで男と間違えるのっ!?声聞けば普通わかるじゃない!」
自分の声が男みたいと思った事もなければ思われたこともない千歳である。
納得いかない千歳に対して、少年はそれに心底くだらないとでもいうように溜息をついた。
「男だってそのくらいの声出す奴いるから間違えても仕方がないだろ?それに…」
少年が千歳の胸を指差す。
「それ男と間違えても不思議じゃない」
「っ!!?」
その言葉にどれだけの鋭い牙が隠されていたのだろうか。千歳は衝撃を受けた表情のまま固まった。
それには気付かず少年はまるで悪びれてないかのように息を整えると、最後に千歳に向かって忠告した。
「それじゃ、僕もう行くからな!負けたら本当に後で承知しないからな!」
千歳がショックを受けている間にそう言うと、もう用はないとばかりに少年は遅れた分を取り返す為、走っていった。
座り込んだままの千歳は、そんな少年をジッと見ていた。
最初はぶつかったから悪いと思って謝ったり、子供だから怒るような事をしないようにしていたのだが、人間言われたくない事を言われると理性が働かなくなる時がある。
そして、千歳は思った。
(よし、一回叩こう!)
一回くらい叩かないと傷ついた心を少しも癒せない。
千歳は走りにくいローブを脱いで軽く準備すると、足を壁に掛ける。
「陸上部、舐めないでよね!」
そうして、千歳は少年を追うようにして走った。