Grace sorprendente  三章 5 




千歳はとにかく必死だった。
突然襲われたことに半ば混乱しながらも走っていた。
道を曲がり、狭い路地に入り、とにかく真っ直ぐ走らないように心掛けて逃げ続ける。
途中、道を曲がった瞬間後ろでナイフがどこかに刺さる音が聞こえた。恐怖で視界が歪む。
間違いなく自分が狙われている。明確な殺意が向けられているのが分かる。
だが、殺意を向けられているのが分かっていても、夜のせいで視界が悪いのか相手の正体は全く見えず、分からない。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ!」
自分の息遣いだけがやけに大きく聞こえる。
足音も自分のしか聞こえない。
なのに、後ろにぴったりと付いてきているのを感じる。
(前の追ってきた騎士たちとは違う)
そう思った。
追ってきている相手は、どうも見られずに事を済まそうとしている。
夜で、しかも一人の所を狙って襲ってきたことからもその事が伺えた。
だが、それが分かってもどうしようもない。
千歳自身に対抗する術(すべ)などあるはずがなく、またそうしたとしても結局最後には殺されるだろう。
残っている道は逃げ切ることだけ。
だから千歳は頭の中でいかに上手く相手を撒くか考えていた。
「つっ!!」
一瞬の痛みに堪らず声が出た。
何度か投げられていたナイフが千歳の腕を切り裂いたのだ。
だがそんな事に構っている暇はない。幸い血が多少出るだけで済んでいるので失血になる事はない。
息は結構切れてはいるが、体力はまだまだある。
闇雲に曲がったりしていたが、暗い道ながらも自分がどこにいるのかも分かっている。
事前に歩き回っていて場所を覚えていたのが功を成した。
今千歳がいるのは、直線距離で宿泊先から大体5分〜10分の位置だ。
これなら千歳の体力でも十分に行ける。
追跡者が宿泊先の中にまで入ってきてしまってはどうしようもないのだが、見られないように動いているのだから無闇に入ってくる可能性は低い。
だからこそ、早く宿に辿り着こうと更に早く走る。
追跡者は今だ正体を現さず、ナイフを投げてくるだけ。
それらを躱しながら、目的地である宿まで駆ける。
そして、宿まであと少しの距離まできたとき、千歳は不意に地面に足を取られそうになった。
「……っと!」
咄嗟に態勢を戻す。
「え?」
しかし、何故か上手く出来ずに千歳の体が勢い良く転倒した。
その際壁に体を当ててしまい、肩を痛めて顔を歪める。
(一体、何が……?)
そう疑問に思いつつも、直ぐに立ち上がって走ろうと腕に力を込めようとした。
だが、
「……あ、あれ?」
力が入らない。
まるで筋肉が弛緩したように力を込める事が出来ない。
「くっ!」
それでも無理矢理起き上がろうとするのだが、一向に起き上がれない。
こうしている間にも追跡者は近づいてきている。
もう少しで宿に着けるという所にまできている事での、この異常事態に千歳の焦りが大きくなる。
その時、自分の腕に痛みが走った事で先ほど付けられた傷の存在に気付いた。
血は既に止まっている。逃げている間でこれだけしか傷がないというのはもしかしたら不幸中の幸いかもしれない。
だが、千歳はそんな事を考えていたわけではなかった。
(もしかして……)
考えていたのは、急に動けなくなった体についての原因。
そして、その原因がなんなのかを理解したということ。
(もしかして……この傷が原因なの?)
正確には、投げられたナイフが原因だろう。
きっと、ナイフの刃に何かを塗っていたに違いない。
そうでなければいきなり力が入らなくなるような事はないのだから。
それでも、原因がわかっただけで千歳が動けないのに変わりはない。
兎に角ただ必死になって体を起こすしかない。
だが、千歳のその必死な行動も遂には無駄になった。
千歳の後ろの方から、何者かの足音が響いてきたのだ。
先ほどまで自分以外の足音が聞こえない事に恐怖を覚えていたのだが、今度は逆に足音が聞こえることが怖くて堪らない。
千歳は、その音がした方へとゆっくり顔を向けた。
暗闇の中でよく見えないのだと思っていたが、それだけでは無かったと思ったのは相手を見てからだった。
顔を覆い隠すような黒いフード付きのローブ。顔は誰だかわからないように黒いのっぺりとした面を着けている。
ただ目の部分だけはくり抜かれているのか、眼光がそこから千歳を覗いていた。
しかも、それは一人だけではない。
次々に同じような恰好をした者が5人。それぞれが静かに千歳へと近づいてくる。
「ぁ、ぇ…?」
近づいてくる追跡者に対して声を出そうとしたのだが、どうやら今度は体だけではなく口にも影響が出てきたのか、小さい、言葉とも言えない声が漏れるだけ。
そしてそんな千歳に、一人の追跡者が傍までやってきた。
その手には、投げるのにも使用されていた銀色に輝く一つのナイフが握られている。
そのナイフを千歳の首元に近づけると、言った。
「どこまで知っている?」
仮面越しのせいか、くぐもった低い声。
淡々と告げるその言葉には感情というものがない。それが余計に恐怖を急き立てる。
しかし、千歳にはその質問が良く分からない。
どこまで知っているというのは、千歳が何かを知っているのを分かっていて尋ねたという事だ。
だが、分からない。千歳は何の事なのかという疑問を投げるようにしてその追跡者に視線を送る。
「…………」
しばらく、追跡者は無言だった。
もしかしたら、知っていてはぐらかしていると思っているのかもしれない。
周りの追跡者たちも無言で見合わせている。
それに何かしらの合図でもあったのか、今度は千歳の傍にいる追跡者に顔を向けると、その追跡者は一つ頷いて千歳に向き直った。
「では、処理する」
「……ぇ?」
まるで何事でもないように告げた言葉。
処理って何だろう、とまるで他人事のように思いつつ、千歳の思考はこれから起こる出来事を想像しようとするのを拒否している。
ゆっくりと、まるで判決を下すかのように振り上げられるナイフ。
それがこの暗闇の中で唯一の淡い光であり、何故だか一瞬恐怖も忘れてその光に目を奪われた。
そして、ナイフをゆっくり振り上げていた手が止まり、いよいよその刃が千歳の心臓に突き刺さろうかという時、
「おや? そんな所で何をしているのですか?」
第三者の声によって遮られた。