Grace sorprendente  三章 6 




大通りから外れた路地で、追跡者たちは一斉に声のした方向を見た。
ゆっくりと、千歳のいる場に声を掛けてきた第三者がちょうど月明かりに照らされているところまで歩み寄ってくる。
そして、声を掛けてきた人物の姿が見えた。
長く白に近い灰色の髪を紐で束ねている眼鏡を掛けた男。フード付きのローブを着ており、その外見は繊細そうで頼りなさそうにも見える。
年齢は25歳前後くらいだろうか。
「おや、これはとんでもない所に出くわしてしまいましたね」
その男がようやく千歳たちの様子を確認できる所までくると、今にも千歳が殺されそうな場面に一瞬驚き、眉根を寄せた。
だが、その眼鏡の男は慌てている様子もなく、どうしたものかという思案をしているようだ。
「いやはや、ここ最近物騒な事が起こっているのは良く聞いてますが、まさか私自身がそれに遭遇する事になるとは思いませんでした」
眼鏡の男は困ったように頭を?いている。それが千歳には、何故だか奇妙に見えた。
普通なら慌ててこの場を逃げているか、もしくは千歳を襲っている追跡者たちに何をしているんだというものだ。
それとも、ただ単に思考が追いついていないだけなのだろうか。
と、その瞬間、千歳を殺そうとしていた追跡者が無言のまま眼鏡の男目掛けてナイフを投擲した。
正に一瞬の隙をついたような一投。そのナイフは回転しつつも綺麗に飛び、真っ直ぐと眼鏡の男の体に吸い込まれ、そして、
「っ!?」
当たった。
本当に一瞬の出来事。先ほどまで困ったように話していた男は刺さったナイフを茫然と見つめて、無言のまま倒れた。
ナイフの刃が眼鏡の男に刺さるその瞬間を目撃し、千歳は目を見開いて倒れた男を凝視した。
あっけなく、目の前で人が死んだ。
その事を理解したくなくても目の先にあるものが現実を突き付けている。
きっと目を閉じたとしても、先ほどの事が脳裏に焼き付いて離れないだろう。
それほどの衝撃を受けていた。
段々と周りの音よりも心臓の音の方が大きく感じるほど、何かに急き立てられている。
それは恐怖でもあり、また人を殺した目の前にいる追跡者に対しての怒りでもあった。
体が痺れて動けない千歳は、それでもナイフを投げた追跡者をあらん限りの力を込めて睨みつけた。
「こ、の……ごろ、し……」
口が痺れて上手く喋れないが、千歳は言葉を放つ。
途切れ途切れの言葉はしかし、相手に伝わった。
しかし、そんな言葉など苦にもならないかのように静かな殺意の瞳をもって見返してくる。
結局、殺されることには変わりはなかった。
ただ、殺されなくてもいい人を巻き込んでしまった事が自責の念を生む。
そう自分を責めながらも、相手にだけはそれを悟られたくはなくて、精一杯の強がりをもって追跡者を睨みつけた。
その視線を受けつつも、再びナイフを手に持った追跡者が今度こそ息の根を止めようと逆手に持ち替えてゆっくりと振り上げた。
後は振り下ろすだけ。
そして、
ナイフを持った追跡者の顔が炎に包まれた。
「ガァッ!!?」
唐突に顔面を炎によって包まれた追跡者は、堪らず声を出して千歳から離れると、火を消そうとしているのかのた打ち回る。
しかしそれでも火は消えず、それを消すためなのか、また酸素を奪われている為か喉や顔を掻き毟ったりし始めた。
周りの追跡者達はその様子に動揺し、のた打ち回る様子を暫く見ていた。
あまりの事に茫然としているようだ。
それは千歳も同様だった。いきなり目の前の追跡者が炎に包まれる姿を見て、何が起こったのか分からなかった。
「いやぁ、いきなり投げてくるなんて吃驚するじゃないですか」
と、そこで殺された眼鏡の男がいた方向から声が響いてきた。
いや、その声は紛れもなくナイフで死んだと思われた眼鏡の男のものだった。
咄嗟に追跡者達が構える。
そんなのは気にしていないのか、眼鏡の男は刺さっていた筈のナイフを取り出して床に放り捨てる。
衣服は破れていたが出血もなく、傷一つついていない。
「それに、いたいけな子供を殺そうとするなんていけませんよ?」
そうして眼鏡の男は叱るような口調で言う。
顔面を炎に包まれていた追跡者は、もう動いていない。炎はいつの間にか消えていたが、人の焼けた匂いが辺りに漂っている事から顔が誰とも分からないほど焦げているのが見えなくても分かった。
そんな無残な死に方をした追跡者には一切目もくれず、眼鏡の男は言葉を続けた。
「私はそういうのが嫌いなんですから」
眼鏡の男がそう言ったと同時、それを合図したかのように残った5人の追跡者達が一斉に眼鏡の男の方へと襲いかかった。
それぞれが狭い路地の中を無駄のない動きで迫っていく。
やはりナイフを持ち、それぞれが連携をもって眼鏡の男に肉迫する。
正に多勢に無勢だ。
一人でこれだけの、暗闇に紛れ込んで動く殺しを極めているような者たちを相手にするのは無謀ともいえた。
5人の内の先頭にいる追跡者が、ナイフを身体ごと突き刺すように突進してくる。
その後ろにいる残りの追跡者たちがまるであらかじめ決めていたかのようにそれぞれ違う方向からナイフを投擲する。
逃げる方向を制限するかのように投げられたナイフ。当然眼鏡の男はそれを回避する。
不意打ちでなかった分、避けることはそう苦ではないらしい。
そこに、先頭を走っていた追跡者が読んでいたかのようにナイフを突き刺そうとして、眼鏡の男の懐まで来た。
既に回避行動をとっていた眼鏡の男は途中で違う行動をとるような事は出来ない。
故に、ナイフを持った追跡者の突きは確実に刺さる。
と、思った時だった。
「っ!!?!」
何か強烈な音が聞こえたと同時、ナイフを突き刺そうとした追跡者の身体が一瞬撥ねたかと思うと、その場に崩れ落ちた。
倒れた追跡者の身体は、ぴくぴくと身体を痙攣させている。
まるで電流を流されたような様子だ。
だが、これを見ている千歳には先ほどと同様どういう事なのか理解できない。
眼鏡の男は丸腰だ。ローブに身を包んでいるので中に何かを隠している可能性はあるかもしれないが、手には何もない。
しかし追跡者たちは相手がどんな事をしているのか知っているようだ。
残った4人の追跡者たちは一旦距離を取る為に後退する。
「おや、この人を助けないんですか?」
眼鏡の男は暢気そうにそう言っている。
それを聞いても警戒するようにして構えながら動かない追跡者たち。
何故か最初に仕掛ける時よりも数段警戒している。
そんな中、追跡者達の中の一人がぽつりと呟いた。
「……魔術師か」
(魔術師?)
その声を聴いた千歳は自分の中でその言葉を繰り返した。
魔術師とは、あのファンタジーなものに登場するものだろうか。
だが、現実として千歳は実際にそんなものが実在するなんて事はないと理解している。
もし本物が存在していたらきっと世界中が大騒ぎだ。
だからこそ、千歳は目の前に起こったことがまだ理解できない。
いや、信じられない。
(魔術師なんて、そんなのがいるわけない)
そうやって思い込んで否定するしかできない。
戦闘はまだ続いている。
魔術師と言われた眼鏡の男は笑顔を一つ。臆することなく対峙している。
向かって追跡者たちは警戒しつつどう動くか探っていた。
追跡者たちにとっては、魔術師がどれほどのものなのか理解しているらしい。
たとえ人数が多くとも魔術師一人にやられるという事は良くある。
あまり魔術に関して知識や実力がない者であったなら追跡者たちにとっては苦にはならなかった。
しかし、眼鏡の魔術師の実力が相当のものであるのは2人倒されたことからも想像がつく。
「どうしたんですか? 来ないならこちらから行っても良いですよ?」
眼鏡の魔術師はそう言うと、ゆったりとした動作で歩いてきた。
それでも追跡者たちは攻撃を仕掛けない。
歩いてくる魔術師に対峙しつつ、残りの追跡者たちは目配せした。
それが何の合図だったか、直ぐに分かった。
追跡者たちは2人にそれぞれ分かれると、片方は魔術師に、もう片方はあろうことか千歳の方へと駆けてきた。
「!?」
どうやら、邪魔をされないように魔術師の方へ行く者と、目的である千歳を殺す者とで分かれたようだった。
未だ痺れている身体を無理に起こし、何とか壁に凭れている形まで行った千歳が、迫る追跡者たちに驚愕する。
(嘘っ!?)
一方で、魔術師の方も迫ってくる追跡者たちを迎撃する態勢を取っており、千歳の方には気にも留めていない様子だ。
だが、魔術師は暢気な声で言った。
「そっちは任せましたよ」
誰に向かって言ったのか、それは魔術師しか分かっていなかった。
そして、千歳の目の前に唐突にそれは現れた。
後ろ姿で顔は見えない。ただ、燃えるような赤い髪に黒い服装。それが、どこかで見たように千歳は思った。
突然現れた人物に、だがしかし追跡者たちは構わずにナイフを手に迫ってくる。
赤髪の男は眼鏡の魔術師同様に、両手に何も持ってはいない。
だが、まるで両手に剣を持っているかのように構える。
そして、追跡者が間合いに入った瞬間、相手を切り裂く動作で剣を左上から右下へと斜めに振り下ろした。
瞬間、追跡者の一人が身体を袈裟懸けに切られてその場に崩れ落ち、絶命した。
だが、もう一人の追跡者の加速は止まらない。
それが分かっているのか、赤髪の男は間髪入れずに振り下ろした腕を構え直したかのような動作をして、両腕を追跡者の方へと突き出した。
同じように追跡者もナイフを突き刺そうと腕を伸ばす。
お互いが重なり合い、そして静止する。数秒後、勝敗は決した。
追跡者が赤髪の男に凭れるようにして声も無く、うつ伏せに倒れた。
赤髪の男は倒れた追跡者の息が途絶えているのを確認した後、片腕を払った。
すると、追跡者を切った時の血だろうか。それが地面に飛び散るように付着する。
ここまでを千歳は見ていた。
殺し殺されの場面に顔色が青くなりながら、どうやって追跡者を殺したのかを疑問に感じていた。
もしかしたら、またあの眼鏡の魔術師のような得体の知れないものを使ったのだろうかと思った時だった。
不意に、月明かりが赤髪の男を照らした。
「……ぁ」
そして、それを見た。
赤髪の男は、得体の知れないものを使ってはいなかった。
その手には、しっかりと剣が握られていたのだ。
だがそれは普通の剣ではなかった。刀身から柄まで全てが黒一色。
これならば暗闇の中、相手には丸腰のように見えてしまうだろう。
正に目の錯覚を利用した剣だった。
その剣を赤髪の男は、これもまた黒い鞘に収めるとようやく千歳の方へと振り返った。
「……また、お前か」
千歳の顔を見るなりそういう男は、千歳の宿泊している宿に同じく泊まっている赤髪の男だった。
千歳の方は返事も出来ずにただ視線を返すのみ、ただ何故だか赤髪の男の視線に落ち着かない気持ちになる。
「そちらはもう終わりましたか?」
と、そこで離れたところから声を掛けられた。
眼鏡の魔術師だ。
魔術師の足元には、これもまた追跡者たちが倒れていた。
見た目には外傷がないようだが、全く動く気配が無く、息をしている様子もない。
「ああ」
赤髪の男は千歳から視線を外すと、素っ気なく答える。
そんな返答に、魔術師は慣れているのか特に何も気にせず千歳たちの傍に寄ってくる。
「いやぁ、流石にあの人数で襲われているこの娘を守りながらお相手するのは厳しかったので助かりましたよ。時間を稼ごうと話をしたんですけど、途中でナイフを投げられてしまってちょっと焦りました」
焦ったと言う割にはのほほんとしていたように思った千歳だが、今は痺れて喋ることができない。
「ところで、お知り合いですか?」
「……偶然にもな」
まるで千歳と知り合いなのが嫌だとでもいうような口調でそう呟く。
千歳にも赤髪のそういう感情が分かったのだから、眼鏡の魔術師にもその感情が当然伝わっているだろう。
魔術師は困ったように苦笑して、そうですかと一言言っただけで話を切った。
赤髪の男の方も、これ以上話すことは無いと二人を置いて去っていこうとする。
千歳は多少の安堵と困惑を持って去って行こうとする赤髪を眺めていた。
なんだか嫌われているような、そんな気がするがその原因となるような事など全くしらない。
というか、そもそもそんなに会っていないのだ。
そうしてただ去って行く背中を見続けていた千歳だったが、すぐ傍に魔術師が寄ってきていた事に吃驚して小さく声を上げた。
「あ、すみません。驚かせてしまいましたか?」
心配そうに覗いてくる魔術師に、千歳は首をぎこちなく左右に振る。
まるで簡単に、そして容赦なく追跡者たちを葬った男。
それを目撃してしまったのだから、もしかしたら自分もそうなるのではないかと知らず震えて魔術師を見上げる。
魔術師はそんな千歳の内心を悟ったのか、そんな事しませんよと苦笑し、未だ痺れて立てない千歳を肩を貸して立つのを手伝った。
「あ、ありがとうございます」
多少呂律が回っていないが、それでも声を出すことが出来るようになっていたようで、助けてもらった事、怖がってしまった事の謝罪、肩を貸してくれた事へのお礼を伝えた。
魔術師は笑顔でそれを受け入れた。
別にそこまで気にしていないようだ。
そして、魔術師が千歳を助けつつ口を開いた。
「それよりも、問題はこの後なんですよね」
「この、後ですか?」
「はい」
千歳は分からずに聞き返した。
その際、二人は赤髪の男の後を追うようにゆっくりと歩きだす。
赤髪の男はそんな二人に目もくれずに歩いているが、一定の距離を保っている。
魔術師は千歳を気遣って歩きつつも、困ったように笑って頷いてから話を続けた。
「先ほどあなたを殺しに来た者は結構実力のある者たちでした。そこらの殺しを生業としている者たちならばある程度は知れていますが、あれは殺しを極めた達人の集団です。という事は、雇った人物は大物である可能性があります。きっと、一度失敗したくらいでは諦めないでしょう」
「そ、それじゃあ」
戸惑う千歳に魔術師は躊躇しつつも、直ぐにきっぱりと答えた。
「はい。今後も狙われる可能性があります。しかも、先ほどよりも強い者を雇って……」
戦慄した。あんな事が今後もあるという事に身体中の血液が冷えていくのが分かる。
そしてこんな時になって、レフが早くここから出た方がいいという忠告を思い出して後悔するように項垂れた。
明らかに怖がっている千歳に、魔術師は慌てる。内心余計な事を言ってしまったと自分を叱りつつ、言い繕うように言葉を発した。
「あ、だ、大丈夫ですよ。私があなたを狙われないように守りますから」
「え?」
「おい、今何を言った?」
魔術師の言葉に千歳と赤髪の男がそれぞれ反応を示した。
千歳は唐突な言葉に驚いて見返し、赤髪の男は振り返るとまるで射殺さんばかりに魔術師を睨みつけていた。
そんな二人の反応に、魔術師はあえて片方を無視して喋る。
「そうすれば、あなたは襲われることが無くなると思います。他に仲間も沢山いますし、皆さん強いですからね」
「え、あの……」
「おい」
睨みつける上に今度は殺気立つ赤髪の男。それに戦々恐々としながら千歳は二人を交互に見る。
魔術師は赤髪の男とは正反対に笑顔だ。だが、流石に今度は赤髪の男に顔を向け、なんですかと視線で尋ねる。
「お前は何を言っているか分かっているのか?」
「ええ、私はこれ以上無いほど分かっていますよ」
「他の連中が何を言っても、俺は貴様を助ける事はしない」
「ええ、私が責任を持って説得しますのでご心配なく」
魔術師がそういうと赤髪の男は舌打ちした後に千歳を一瞥し、それから背中を向けてまた前を歩きだした。
と、しかし途中で立ち止まるなり赤髪の男は振り返って千歳を睨みつける。
まるで、余計な者が入ったと憤っているようだ。
そして、赤髪の男は千歳を睨みつけながら言った。
「俺はお前がどうなろうとも、例え目の前であろうが助ける事はしない。もし死にたくないならさっさと身支度を済ませて遠くへ行く事だ。遥か遠くへな」
そう言うと、もう用はないとばかりにさっさと宿に戻るために歩き去って行った。
千歳は、そんな背中を向けている相手に小さく頷いて答えた。
「すみませんね。彼はあまり周りと協調しようという事をしない性質なので、許してあげてください」
「いえ、その……それよりも、本当に良いんですか?」
歩き去って行く赤髪の男の背中にため息をついて謝る魔術師。
それを少し慌てて気にしていないというように手を振ってから、魔術師が提案してきた事に恐る恐る確認を取った。
やはり今後も襲われると考えると不安なのだ。
だが、あの恐ろしい追跡者たちを排除した魔術師たちについていけば安心を得られるのが分かった。
付いていけるのなら付いていきたい。
魔術師はそんな不安を抱える千歳に微笑みかけると、大丈夫ですよと一言。
「私が貴方を守りますからね。明日、彼と一緒に私の所に来てください。3人集まったらここを出ます」
「はい」
安堵しながら頷いた千歳。
だが、そういえば村をでる為に協力してくれていた人物。ディーの事を思い出してどうしようかと悩み始めた。
魔術師はその様子を見て、首を傾げて尋ねてくる。
「どうかしましたか?」
「えと、私前からここを出ようとしてたんですけど、手伝ってくれてる人がいるんです。エルト村に行く為の準備をしてくれてる……」
「なるほど」
千歳の返答に納得して頷く魔術師。
だがすぐにこう返してきた。
「それじゃあ、私が代わりにその方へ伝えましょう。ですから貴方は気にせずにいてください」
「でも……」
流石にちょっと自分が無神経だと思う千歳。折角無理して頼み込んだのにそれを無駄にしてしまったのだから。
軽く自己嫌悪に陥る千歳に、魔術師は大丈夫ですよと笑顔で安心させるように言った。
「しっかりと事情もお話ししておきます」
「…………よろしく、お願いします」
情けなく思いつつ、そういって魔術師に頼んだ。
魔術師の方は、それからディーの名前や普段どこにいるのかを千歳から聞いてから、任せてくださいと微笑んだ。
と、そこで何かに気付いたのか魔術師が苦笑した。
「っと、そういえばまだ名前をお互い知らないままでした」
「あ、そうでしたね」
言われて千歳もそれに気づいて苦笑しつつ頷く。
そして、先ずは私からですねと言うと、魔術師が自己紹介をし始めた。
「私の名前はリーシェ。魔法を扱う魔術師です」
ここで魔術師という言葉を再度耳にした千歳。やはり聞き間違いでもなさそうだ。
「あの、魔法って……」
「あれ? 魔法を知らないんですか?」
リーシェと名乗った魔術師はまるで信じられないかのように千歳を見たが、その後はどうしたものかと苦笑していた。
「まぁ、今ここで話す時間はもうないですし、それは明日にしましょうか」
「分かりました」
千歳はそれに同意して頷いた。気にはなっているが、今日はもう散々走ったお蔭で疲れている。
それに、明日になれば否応なく聞けるのでその方がいいと考えた故だ。
そして、改めて今度は千歳が自己紹介を始めた。
「えっと……私は、はやか……じゃなくて、千歳って言います」
「チトセか。いい名前ですね」
うっかり苗字まで言いそうになったが、どうやらリーシェは気付いていないらしい。
それよりも、千歳の名前をニコニコしながら褒めてくるのでなんだか照れくさくなって俯く千歳。
「彼も紹介したいところでしたけど、もういないので明日になりますね。その時に改めて自己紹介をしましょう」
リーシェの言葉に千歳は頷いて答えた。
とうとう明日になればここロンダーを去ることになる。
どうかそれまでもう何事も起きませんようにと、千歳はそう祈るばかりだった。